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渥美清的映画
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新・男はつらいよ

松竹/91分/1970年(昭45)2月27日公開 <第4作>
原作 山田洋次 脚本 山田洋次・宮崎晃 監督 小林俊一
撮影 高羽哲夫 音楽 山本直純 美術 宇野耕司
共演-倍賞千恵子・森川信・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆
ゲスト-栗原小巻・財津一郎
同時上映「アッと驚く為五郎」監督:瀬川昌治 出演:ハナ肇、梓みちよ
動員数48万5000人/ロケ地・名古屋
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★「男はつらいよ」第4作。

監督はテレビ版の演出を担当した小林俊一。
テレビ版は当初「愚兄賢妹」と言う題名だったが都合で没になり小林が「男はつらいよ」と命名した。
前作からわずか5週間後の公開。スタッフキャストは休みなく撮影を続けた事だろう。
この回の主題歌は歌詞が今までの物と違っている。以後この歌詞はこれ一回きりのようだ。小林はこの主題歌を発注した当人らしくアウトテイクでも持っていたのだろうか?

♪どうせオイラは底抜けバケツ、分かっちゃいるんだ妹よ
入れたつもりがすとんのポンで、何もせぬより未だ悪い
それでも男の夢だけは、何で忘れて、何で忘れているものか、いるものか♪

この第4作は撮影期間も短かっであろうと思われセット撮影が多い。ロケ地も近場の名古屋ですまされている。出だしは第1作の終わりで故郷八戸へ戻っていった登がとらやに海外旅行の売り込みに来る所から始まる。登は旅行会社のセールスマンになっているのだ。そこにタコ社長が名古屋出張から戻って来る。名古屋の競馬場でタコ社長は寅と出会った。寅は15000円の大穴を当てたらしくその後は別れたとか。多分寅さんの事だから最後にはスッカラカンになってしまっただろうとタコ社長は話す。

シーン変わって江戸川の畔を疾走するタクシーが写る。軽快な音楽。乗っているのは寅。名古屋からタクシーで戻ってきたのだ。実は寅は次のレースもその次も当てて何と100万円になった。
近所に大盤振る舞いをして登のつてでおいちゃんおばちゃんにハワイ旅行をプレゼントする事となる。

しかし出発当日に登がとらやに駆け込んでくる。会社の社長が旅行代金を持ち逃げしてしまったと。
近所の人が大勢詰めかけて笠智衆演ずる御膳様から餞別まで頂いている。いまさら取り止めるなんて事は出来ない。送迎のタクシーに乗って万歳三唱で見送られる寅たち。

深夜になってコソ泥のように自宅に戻ってくる三人。
仕方ない。じっと息を潜めて帰国日までここに居ようとなるが、そんな時入り口のガラスが破られる。財津一郎演ずる本物のコソ泥がハワイに行って留守だと踏んで侵入してきたのだ。

財津 一郎は1934年熊本県熊本市出身のこの時36歳。父親は農林省(現:農林水産省)の役人で3人兄弟の末っ子として東京に住んでいたが、その父親が中国へ出征し、1944年一家は故郷の熊本へ疎開、終戦後も高校を卒業するまでを熊本で過ごした。
1953年上京後早大文学部演劇学科受験に失敗。アルバイト生活をしつつ榎本健一映画演劇研究所(いわゆるエノケン学校)で演技の勉強をする。同時に帝劇ミュージカルの研究生になる。1955年に帝劇ミュージカル解散の後、石井均一座に入門(このとき楽屋の化粧前でばったり会ったのが現在の伊東四朗である)。また新宿の劇団「ムーラン」の舞台に立った。その「ムーラン」も数年後解散の憂き目に遭い、一時は大阪からやり直しと宝塚新芸座からOSミュージックホールと歩いた。1964年、吉本新喜劇に参加、芸名を現在の財津一郎とする。
藤田まこと主演のテレビ番組『てなもんや三度笠』に浪人・蛇口一角(へびぐち いっかく)役で出演、手を頭の後ろから回して反対側の耳をつかみ、甲高い声で叫ぶ「非っ常にキビシ〜ッ!」、「〜してチョウダィ!」のギャグや、抜いた刀の刃を蛇のように舐めまわす、といった奇怪な動きが評判となり、一世を風靡した。当初はギャグで言った台詞ではなかったそうで、演技中に突発的に奇声を発すると予想外に受けたことが由来である。途中から写真師・桜富士夫役に変更になるが、奇人変人ぶりがあまりにも好評だったため、レギュラー化して同番組の最終回まで出演した。ちなみに役名の蛇口一角は忠臣蔵の清水一角(しみず いっかく)のもじり、桜富士夫はフィルムのブランドのさくらカラー(現:コニカミノルタ)とフジカラーからとられたものである。
財津の発する奇声は、焼肉「こてっちゃん」などのCMでも評判となった。タケモトピアノのCMにも出演し、関西では大ブレイクした。また、タケモトピアノのCMは『探偵!ナイトスクープ』において“赤ちゃんに見せると泣き止む”CMであると紹介された。赤ちゃんが泣き止む理由は、財津の声が幼児が好む440ヘルツ周辺の音であるためという。
渋い演技派として認められ、シリアスなドラマの仕事が増えたのちも、奇声や奇矯さをメインにした仕事も厭わず引き受けており、硬軟自在である。吉本新喜劇に出演していた頃、アドリブで仁丹を使ったネタをやったところ、当時吉本新喜劇のテレビ中継のスポンサーだった大正製薬を怒らせてしまった。幸い財津は降板せずに済んだが、この一件が元でそれまで生中継されていた吉本新喜劇は録画放送されるようになり、現在に至っている。

財津演ずる泥棒は、居間に上がったと同時に袋だたきにあう。警察に電話しようとするがそうするとハワイに行かなかったことがバレてしまう。どうしようこうしようで結局近所にはバレてしまって前半の終了。

ここまででちょうど45分である。映画の半分が終了した。後半はハワイ旅行とは全く関係のない話が展開される。とらやの二階に下宿した栗原小巻に寅が惚れて回りは大騒動となる。

栗原はこの時25歳。東京都世田谷区出身で父は劇作家の栗原一登。当初はヴァイオリニストになることを志望していたが断念、バレリーナを目指し東京バレエ学校に通っていたが、演技の基礎が必要と教師に言われ、1963年に劇団俳優座に入った。1968年の『三人姉妹』(チェーホフ)で注目を浴びる。1964年『虹の設計』でテレビドラマデビュー、1970年のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』でヒロインを演じ、大河ドラマ『黄金の日日』にも出演した。映画女優としては1972年の『忍ぶ川』で、加藤剛相手に大胆なベッドシーンを演じて毎日映画コンクール女優演技賞を受賞。

ロシア(旧ソ連)との繋がりが深く、1981年には日本で初めてソ連の演出家(A・エーフロス)を招いて行った舞台公演『櫻の園』に主演した。1974年の日ソ合作映画『モスクワわが愛』にも主演、『白夜の調べ』(1978年)、『未来への伝言』(1990年))では企画も担当した。愛読書の一つにレフ・トルストイ『戦争と平和』を挙げている。

熱狂的な男性ファンが多く、吉永小百合ファンが「サユリスト」と呼ばれたのに対し、栗原小巻ファンは「コマキスト」と呼ばれた。奇しくも吉永とは生年月日が1日違い。アイドル的存在として人気を分けたが、中年以降吉永が女優としての活動の主軸を映画に据えているのに対し、栗原は元々のフィールドである舞台を中心としながらもテレビドラマの出演も少なくない。未婚。

この第四作は以降のシリーズの礎になる要素が沢山見受けられる。
とらやの二階に寅が惚れる相手が下宿するパターン。振られるだろうである寅を何とか周りが引き止めるパターン等。そして、案の定彼氏が現われて寅は振られてまた旅へと出て行く・・・。

1本の映画と言うよりテレビ番組の第1話第2話を続けて見せられた印象がある。もしかしたらテレビ版の2話分の脚本を再構成したのかもしれない。
渥美清の演技は所々に面白いところがあるのだがストーリーとは絡まないので印象には残らない。




<参考文献「知られざる渥美清」大下栄治「おかしな男渥美清」小林信彦>
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